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歴史人物伝 歴史人物伝

日本のワインのパイオニアたち

布教がもたらしたブドウ酒

ザビエルが持参した献上品
イエズス会の宣教師 フランシスコ・デ・ザビエル

イエズス会の宣教師 フランシスコ・デ・ザビエル(「聖フランシスコ・ザヴィエル像」重要文化財、部分)

1549(天文18)年8月15日、ポルトガルの宣教師フランシスコ・デ・ザビエルと、その一行を乗せた南蛮船が鹿児島港に入港した。ザビエル一行はインドのゴアを出航し、さらにマラッカを経て、危険な航海の末、4カ月をかけてようやく鹿児島へとたどり着いたのであった。
上陸から45日後の9月29日、薩摩の国の守護大名・島津貴久に謁見したザビエルは、献上品として数々の貴重な品を贈り、加えて美しいガラスびんに入った「赤き酒」を差し出した。イエズス会の宣教師兼通訳でもあったジョアン・ツズ・ロドリゲスの『日本教会史』によると、ザビエルはキリスト教伝道のため、はるばる海を越えて日本を訪れた旨を島津公に伝え、キリストの血を象徴する「赤き酒」すなわち「赤ワイン」は、キリスト教に帰依した人の洗礼のために飲んでもらう、ブドウの汁を醸造した酒である──と説明し、この赤き酒を島津公に味わってもらった、と記されている。

これが、日本人が西洋のワイン、いわゆるブドウ酒を飲んだことが明確に記された最初の記録である。

貴久はザビエル一行を歓迎し、丁重にもてなした。その証に、家臣にもキリスト教信仰を許可したほどであった。1年余りこの地に留まったザビエルだが、やがて仏僧からの反発が起こり、ポルトガルとの通商に意欲を燃やしていた貴久も、期待に反してポルトガル船が来航しなかったことなどから態度を一転、禁教に転じた。

そこでザビエルは、かねてからの計画であった京都行きを決意する。五島列島を北上し、平戸港に寄港。ここで、領主・松浦隆信のもてなしを受け、約2カ月間布教に励んだ。その後、関門海峡を渡って、西の京都と称されるほどの雅な宮廷文化を誇った周防(現・山口県)に立寄り、その守護大名・大内義隆に謁見を申し入れた。ザビエル一行はここでも布教活動を行うが、義隆との謁見の際、長旅で汚れた身なりをしていたことや、武家社会の慣習を否定したことから義隆の反感を買い、正式な信仰許可を得ることはできなかった。

ブドウ酒はミサ用か"大人用の薬"
この頃のザビエルの書簡の中に、「日本の主食は米であるが、その米から酒を造る。しかし、そのほかに酒というものはない」とある。また、永禄年間に同じく宣教師として日本を訪れたルイス・フロイスも、その著書『日本史』の中で、「酒は米から出来ているが、ブドウから造られたワインはヨーロッパからの輸入品で、これはミサ用として使うブドウ酒か、大人用の薬として用いるだけである」と記している。この“大人用の薬”という記述は、戦国時代に輸入されたブドウ酒が、日本人にはまだまだ方薬としてしか飲用されていなかったことを意味する。
ブドウ酒が、ヨーロッパの生活習慣の一部として日本にも馴染みはじめたのは戦国末期、織田信長らによって「チンタ酒」として親しまれるようになってからのことである。「チンタ」とはポルトガル語の「チンタ・ヴィーニョ」、すなわち「赤ワイン」を指す言葉であるが、わが国では珍しい酒として「珍陀酒」と書き表された。
周防を発ったザビエル一行は薩摩上陸から2年後にようやく上洛を果たすが、当時の都は内乱(応仁の乱)で荒れ果てていた。しかも献上品も底をついてしまったことから天皇や将軍への謁見を断念。留まることわずか11日で一行は京をあとにし、周防を経て、1551(天文20)年3月、平戸へと引き返した。

大内義隆に贈られた品々
周防の守護大名 大内義隆

周防の守護大名 大内義隆(「絹本着色大内義隆画像」山口県指定有形文化財、部分)

ザビエル一行は、4月に再び山口へ布教に訪れた。今回は前回の反省を踏まえて正装に身を包み、インド司祭と総督の公式文書を携え、大時計や眼鏡、双眼鏡など、13品目の貴重な品々を大内義隆に献上している。時にザビエル46歳、義隆45歳であった。
これらの品の中にも南蛮酒(ポルトガルワイン)はあった。『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻』(アルーペ神父・井上郁二訳、岩波文庫)にその記載があり、編者であるゲオルク・シュールハンマーによる[注]として以下のような記述がある。
[注]約二百クルサド(※)の土産であった。品物は日本人が未だ曾て見たことのないものが多かった。例へば、大きな箱の中に精巧なゼンマイ仕掛がはいってゐて、それが規則正しく十二部に分れ、正確に昼と夜とを示すもの(時計)。一つの機械に十二の絃があって、別に手でかき鳴らすことも無く、五週期に十二の音を出すもの(音楽時計)。二つのガラスがはめ込まれてゐて、それを用ひると、老人が若い者と同じやうに、物を明瞭に見ることが出来るもの(眼鏡)。平滑な板で、そこには少しの陰もなく顔が映るもの(鏡)。贅沢に装飾され、三つの銃身を有する火縄銃。非常に美麗な水晶ガラス数個。緞子製品。ポルトガルの葡萄酒。書籍。絵画。コーヒー茶碗。等、十三種のものであった。
※ポルトガルの通貨単位

当時の葡萄酒のびんとギアマン製品

当時の葡萄酒のびんとギアマン製品(長崎県平戸市 松浦史料博物館蔵)

この品々に大感激した義隆は、今度はキリスト教の宣教と信仰の自由を認めた。フロイスの『日本史』によると、義隆はすぐさま布教公認の布令を立て、家臣団にも布教を妨げないよう命じたという。宣教は一気に伸展し、民衆のみならず武士や知識人の間にも広まっていった。義隆は、さらに廃寺となっていた大道寺を一行の住居兼教会として与え、これが日本初のキリスト教会ともなった。ザビエルはこの寺で一日2回の説教を行い、約2カ月間で信徒の数は500人以上にも達したとされる。
もっとも、義隆がここまでキリスト教の布教に力を入れた裏には、ポルトガル商人との結びつきを深め、新たな貿易拡大のチャンスを目論んでいた意図もあったと思われる。しかし、この4カ月後、義隆は家臣・陶隆房が企てた謀反によって自害に追い込まれ、大内氏の繁栄は呆気なくついえた。一方、ザビエルは豊後藩主・大友義鎮(宗麟)の招聘を得て豊後(現・大分県)へと赴くが、その3カ月後の1551(天文20)年11月20日、2年余りの日本滞在の使命を終え、インドに向けて出航していった。

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