歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

雑誌制作の息抜きにビールを嗜んだ女性解放運動家・平塚らいてう
(ひらつか らいちょう)1886-1971/東京都出身

女性解放運動の先駆者として

平塚らいてう

平塚らいてう(日本近代文学館 蔵)


明治時代に入り、殖産興業の発展などにより女性の労働力が必要とされたことから、江戸時代に比べると女性の社会進出が進んだ。そして、進取の気性に富む女性たちは、自らの活躍の場を積極的に社会に求めた。そうした背景を受け、明治後期には女性の地位向上や封建的慣習からの脱却を目指す女性解放運動がはじまる。その中心にあったのが平塚らいてうであり、彼女が創刊した『青鞜』という女性文芸誌であった。

原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。
他に依って生き、他の光によって輝く、
病人のやうな蒼白い顔の月である。

上記は、らいてうが執筆した『青鞜』創刊の辞の一節であり、その後の女性解放運動のシンボルともなった一文である。『青鞜』が創刊したのは、1911(明治44)年のこと。その名称は、当時ヨーロッパにおける知的意欲の高い女性たちの間で、青いストッキングを履くことが流行したことによるという。『青鞜』の誌面では、文学や評論のかたちで男性や家庭に依存しない自立した新しい女性像を描いており、創刊の辞にあるように「月」から「太陽」への脱却を訴えたのであった。

この文芸雑誌『青鞜』を創刊するに至ったのは、らいてうの友人であり翻訳家であった生田長江から、女性だけで制作する文芸誌の発行を勧められたのがきっかけであった。徒手空拳で制作作業を開始したらいてうは、スタッフとして大学時代の友人たちを集め、女性作家の家を一軒一軒訪ねて寄稿を求めた。約半年の制作期間を経て、1911(明治44)年9月に『青鞜』創刊。上記の創刊の辞は、締め切り間際に徹夜で書き上げられたという。

『青鞜』制作メンバーとビールで息抜き

この『青鞜』の編集・制作に携わったのは、らいてうをはじめ全員が女性であった。

『青鞜』が発刊されると、その反響は凄まじかった。封建的家族制度により、自己を抑えてきた女性たちにとって、「個の確立」「自我の解放」というメッセージは実に新鮮な響きだったのだ。連日熱烈な声援が届くようになり、2号、3号と順調に刊行が進んだ。創刊翌年の1912(明治45)年正月に「富士川」という料亭で開かれた新年会は、雑誌の成功祝いも込めたじつに華やかなものとなり、ビールや料理の皿がにぎやかに並んだという。

また、彼女らは打ち合わせや仕事のあとに、息抜きとしてしばしばビールや洋酒を楽しんだ。珍しい洋酒を一目見たいという好奇心から、バーやビアホールへ出かけることもあったという。そして、そこで供される黄金色にきらめくビールや、比重の違う5種類の洋酒によってグラスに色とりどりの層をつくる「五色の酒」などに目を輝かせた。こうした色鮮やかな西洋の酒の中に、新時代の空気を感じ取っていたのかもしれない。

しかし、バーにおいて実際にアルコールを口にしたのは、『青鞜』の中心人物であったらいてうと荒木郁子の二人だけであったという。当時は女性がアルコールを飲みに出かけることが一般的ではなかったため、ほかのメンバーたちは躊躇してしまったのだ。女性解放を掲げる人たちでさえ古い慣習の束縛は強かったのであり、その中でらいてうが非常に自由な精神をもっていたことがうかがえるだろう。
『青鞜』創刊号の表紙

『青鞜』創刊号の表紙(日本近代文学館 蔵)

女性も飲酒を楽しめるようになった戦後社会

しかし、この女性誌に向けられた世間の視線は、決して温かいものばかりではなかった。女性解放を訴える内容のみならず、前述のような外出先での飲酒など、メンバーの私生活までもがスキャンダラスに報じられ、ジャーナリズムの攻撃の的となっていた。また、文部省からも「良妻賢母の理念にそぐわない」と目をつけられ、幾度かの発禁処分を繰り返したのち、1916(大正5)年に『青鞜』は無期休刊となってしまう。しかし、らいてうの運動はその後も続き、日本初の女性運動団体「新婦人協会」の結成に尽力したほか、第二次世界大戦後には女性を中心とした反戦・平和運動も行う。

らいてうが訴え続けた女性解放、男女同権の考え方は、戦後社会の中で徐々に結実していく。1950年代から始まる経済の高度成長と、60年代後半からの「ウーマン・リブ運動」を経て、女性が社会に出て仕事を持つことは珍しいことではなくなる。それと同時に、戦前までの女性に対する蔑視や偏見も薄らいでいった。

それを象徴する現象として、女性が飲食店などでビールを当たり前に楽しめるようになったことが挙げられる。1956(昭和31)年の調査では、「女性もビールを飲んでよいか、飲まない方がよいか」の質問に、女性の過半数以上が「飲んでもよい」と回答。高度成長期に入ると、戦前は男性が占有していたビアホールに、続々と女性が進出しビールを嗜むようになる。『青鞜』のメンバーでさえ束縛されていた、女性が飲酒することに対する社会的偏見は、戦後社会の発展の中で急速になくなっていったのだ。

明治・大正・昭和と一貫して女性の自己解放を訴えたらいてうは、1971(昭和46)年、85歳で逝去する。静謐(ひつ)な日々を過ごしたというその晩年は、社会に羽ばたいていく女性たちを温かく見守りながら、好きなビールを大いに楽しんだことだろう。

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