歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールで青春のほろ苦さを体験、庶民魂を描き続けた小説家・野村胡堂
(のむら こどう)1882-1963/岩手県出身

充実した学生時代と、ビールのほろ苦い思い出

野村胡堂

野村胡堂(盛岡市先人記念館 提供)


「てえへんだ、てえへんだ親分!」
と子分の八五郎、通称ガラッ八が毎回持ち込んでくる事件を、岡っ引である銭形平次が痛快に解決していく 人情味溢れる時代劇、おなじみ『銭形平次』の一幕だ。

この時代劇の原作である時代小説『銭形平次捕物控』は、岡本綺堂(きどう)の『半七捕物帳』と並び、日本を代表する傑作捕物小説である。この小説は、映画やテレビ、舞台などでも人気を博し、長谷川一夫、若山富三郎、大川橋蔵らそうそうたる役者が平次役を演じた。『銭形平次捕物控』を実際に読んだことがなくとも、「銭形平次」と聞けば十手を携え、寛永通宝をつぶてのように投げる「投げ銭」で犯人を捕らえる姿が目に浮かぶであろう。しかし、この捕物帳の作者である野村胡堂という人物についてはあまり知られていない。彼は大衆作家であるとともに、音楽評論家「あらえびす」としての顔も持つ、マルチ文化人であった。

野村胡堂、本名野村長一は1882(明治15)年、岩手県紫波(しわ)郡の農村で生まれ育った。学生時代にはぼうぼうの頭髪に汚れたままの衣服で蛮カラを気取っていたが、1学年下の石川啄木の詩稿を見てやったり、生活が不安定な啄木に金銭を工面したりと、面倒見の良い一面もあった。

学生時代の胡堂は、寮生や学友を集めた「コンパ」を頻繁に開き、時には肉鍋などを囲むこともあった。こうした会合の場で、胡堂は初めてビールを口にしている。彼が学生時代を回想してつづった、1924(大正13)年の報知新聞の記事によると「あの苦にがしい奇怪な酒をどうしたらすきになるだらうと思った事を今でも忘れません」と、ビール初体験の感想を明かしている。アルコール好きの胡堂はどんな酒類も嗜んだというが、初めて飲んだビールの味わいには戸惑いを感じたのだろう。こうした学生時代の逸話の数々からは、好奇心旺盛であった胡堂の学生時代が垣間見える。

洋楽の開拓者「あらえびす」

胡堂は粗野な学生生活を送る一方で、西洋音楽に傾倒していった。ヨーロッパのクラシックコンサートがレコードで聴ける時代となり、レコード収集に情熱を燃やした。報知新聞の記者となってからも、月給のほとんどはレコードに化け、生活費は妻が稼いでいたほどであった。

そんな中、1924(大正13)年の報知新聞に「音楽漫談ユモレスク」というコラムが掲載される。筆者は「あらえびす」。連載ではレコードプレーヤーの新機器や、新譜紹介、曲の評論が載せられた。このコラムこそが、胡堂がペンネームを用いて執筆した日本初のレコード評であった。

内容は簡単なコラムであったにもかかわらず、全国の音楽ファンが飛びつき、あらえびす宛の感謝の手紙が山のように届いた。報知新聞の部数が伸びるほどの大反響である。洋楽の開拓者、あらえびすの音楽評論家としてのスタートであった。 胡堂にはレコード収集とともに、もう一つの娯楽があった。レコードコンサートのあと、レコード仲間とおでん屋などで飲むアルコールである。アルコールを片手に音楽談義に興じることが何よりの楽しみだったのだ。

胡堂は自身がアルコールに強かったこともあるが、コミュニケーション手段としてアルコールを利用していた面もあった。親友でフランス文学者の辰野隆(ゆたか)は「野村家を訪れると、きまってアルコールを振る舞われた」と語っており、酒量が落ちてきた晩年になっても、人と会う際は西洋酒などを好んで飲んだという。学生時代は苦手だったビールも、この頃になると頻繁に飲んでいたのだろうか。「コンパ」に興じた若かりし頃から晩年まで、胡堂にとってアルコールは人付き合いに欠かせないものであったのだ。

「銭形平次」に生きる庶民の心

音楽評論によって文筆家として名を馳せた胡堂は、1931(昭和6)年から『文藝春秋 オール読物号』に『銭形平次捕物控』の連載を開始。49歳から75歳までの26年間にわたって、長・短編合わせて383編もの作品を世に残した。

編集長から岡本綺堂の『半七捕物帳』のような作品を依頼された胡堂は、主役のキャラクターづくりから取り組んだ。構想を練って町を歩いていた時、工事現場に「錢高組」という幕がはりめぐらされており、ここから名字を「銭形」に決定。名前は平民の次男坊だから「平次」。「銭」という文字から、『水滸伝』の登場人物・没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)の投石をヒントに、決め技の「投げ銭」が考え出された。ここに「銭形平次」が誕生する。

平次は「罪を憎んで人を憎まず」を地でいく人情家。時には犯人を哀れみ目をつぶることもある。時代小説には大抵盛り込まれる、チャンバラシーンも少ない。それは、弱者や貧しいものへの心遣いを忘れない、胡堂の性格と思いやりの表れでもあった。

胡堂は1963(昭和38)年、肺炎のため逝く。その死の2カ月前、胡堂は自身の財産を寄付し、若い人材の育成と新しい文化への助成を目的とした「野村学芸財団」を設立した。胡堂は学生時代、父の死によって学資不足に追い込まれ、大学中退という苦汁を飲んだ。財団はそうした学生を生み出したくないという胡堂の思いから設立されたものであった。思いやりがあり、面倒見の良い胡堂の蛮カラ精神は、死の直前まで失われることはなかったのである。

彼の死後まもなく、銭形平次の石碑が神田明神に建立された。野村胡堂という温情に満ちあふれた彼の魂は、銭形平次という架空のキャラクターとともに、現在も生き続けている。
神田明神にある銭形平次の碑

神田明神にある銭形平次の碑


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