歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

近代芸能にビール文化を持ち込んだ演劇界の立役者・川上音二郎
(かわかみ おとじろう)1864-1911/福岡県〈福岡藩〉出身

音二郎の名を世に広めた「オッペケペ節」

権利幸福きらひな人に
自由湯をば飲ましたい
オッペケペッポーペッポーポー (松永伍一著『川上音二郎』)

上は1887(明治20)年に発表され一世を風靡した、川上音二郎作「オッペケぺ節」の有名な一節である。自由湯とは、「権利」や「平等」といった自由民権の思想を世に訴えた自由党のこと。自由民権の思想を知らない人に自由党の主張を理解してほしい、という意味であり、ファッションなどうわべだけが西洋化していく世俗を批判したものである。

「オッペケペ節」を生み出した川上音二郎の波瀾万丈な生涯は、14歳で故郷の博多を飛び出したところから始まる。職も金もない音二郎は寺の居候として生活し、そこで出会った慶應義塾の創設者、福澤諭吉の書生となる。しかし勉強よりも芸能に夢中だった彼は、裕福な学生の門限破りを手伝うなどして、もらった謝礼を貯め、落語や講談に頻繁に通ったという。

慶應義塾を去った後、彼は反政府活動に手を染めていく。警官が目を光らせ、厳しい取り締まりのあった当時、逮捕されずに自分の主張を世間へ訴えようと、彼は“芸”を利用することを思いつく。そこで考案したのが「オッペケぺ節」であった。「オッペケぺ」とは合いの手のようなもので、この言葉自体には特に意味はない。当時20代半ばであった音二郎は、この一種の話芸によって、西洋の文化や格好だけを取り入れている政府高官や上流階級を風刺し、自由民権の思想を学ぶ必要性を訴えた。「オッペケぺ節」は芝居ではなく、あくまで幕間の余興にすぎなかったのだが、元来目立ちたがり屋で芸達者な彼がこれを唄うと大いに受け、「オッペケぺの音二郎」として名が売れていった。この「オッペケぺ節」に、次のような一節がある。

ビールにブランデーベルモット
腹にも馴れない洋食を
やたらに食ふのもまけをしみ
内証でそーッと反吐ついて
真面目な顔してコーヒ飲む
をかしいねえ
オッペケぺー オッペケペッポーペッポーポー (松永伍一著『川上音二郎』)

馴れないビールなどの洋食を食してもこっそり吐いてしまうくせに、平然とコーヒーをすすっているのだからおかしいものだ、という意味である。新しいもの好きの音二郎のこと、彼はもちろんビールをはじめとした西洋の飲料を批判しているわけではなく、急激なうわべだけの西洋化は日本人には滑稽であると揶揄しているわけだ。

音二郎は政治活動を始める前には洋傘修理業に従事していた。洋傘は当時流行していたファッションで、文明開化の波に乗ったいわゆる洋風志向のものであった。彼はハイカラな文化に影響を受けながらも、西洋化する社会や人々を冷静な目で観察し、自分の芸へと昇華させていったのだろう。
茅ヶ崎(現・神奈川県茅ヶ崎市)の別荘での川上音二郎(写真右)と貞奴(写真中央)

茅ヶ崎(現・神奈川県茅ヶ崎市)の別荘での川上音二郎(写真右)と貞奴(写真中央)。左の人物は不明(文化の道二葉館 蔵)

一座の公演でビールを販売

「オッペケぺ節」で名を挙げた音二郎は芝居活動を続け、1896(明治29)年には自分の劇団「川上座」を創設する。一座の公演の際には、観劇料や注意書きが書かれたチラシが配られた。それまでの劇場にはこのようなチラシは存在しておらず、音二郎が日本で初めて行った観客へのサービスといわれる。

そのチラシには売店の品目も記載されており、その一つとしてビールが売られていたことに注目したい。弁当が上等で12銭、寿司が上等で5銭、コーヒーが3銭、日本酒が上等で1合4銭5厘の中、ビールが24銭だったというからまだまだ高価な飲料ではあった。しかし、庶民が楽しむ娯楽の場で販売されるということは、ビールが一般に親しまれてきた証拠ではないだろうか。音二郎はそれを敏感に感じ取っていたのかもしれない。

そんな観客に対する気配りもあり、当初は好評を博した「川上座」だったが、衆議院選挙に立候補し、落選したことにより新聞にたたかれ、しだいに落ち目となり、最終的には劇団を債権者へと手放してしまう。

こうして精神的にもふさいでいた音二郎の下に、海外公演の依頼が舞い込んだ。欧米をまわった起死回生の巡業ツアーでは各地で注目を集め、特に1900(明治33)年のパリ万国博覧会では、音二郎の妻であり主演女優でもあった貞奴が大人気となる。エキゾチックな貞奴の演舞をロダンやピカソも絶賛し、ヨーロッパに「貞奴旋風」を巻き起こした。その後も日本での評判は芳しくなかったが、一座はヨーロッパを中心とした海外で公演を続けた。
版画「川上音二郎書生演劇」

版画「川上音二郎書生演劇」(福岡市博物館 蔵)

芸に生きた男の最期

海外ツアーで成功を収めた音二郎は、その後シェイクスピア演劇を日本に広めるために奔走。「オセロ」や「ハムレット」など海外で学んだ原作劇を次々に翻案し、それらを「正劇」と名付けた。1906(明治39)年には自ら俳優を引退し、興行師に転向。裏方として芝居をプロデュースしながら、ますます芝居への情熱を燃やしていった。

地方公演を続ける中、1911(明治44)年9月の博多明治座での公演では、収益金を神社や孤児院へ寄付した。この時の寄付興行では劇場の装飾に力を入れ、表に積樽を置き、中には電燈も増やして、さらには「キリンビール」の屋台まで設置してムードづくりをしたという。「キリンビール」の販売を担当していた明治屋はこの頃、地方で舞台や博覧会などのイベントがある際にビアホールや屋台を提供し、訪れた人々が気軽にビールを楽しめるような仕掛けをしていた。新しいもの好きな音二郎はそこに目をつけ、ハイカラなムードづくりのためにビール屋台を試みたのだろう。

その後も正劇の新作公演開催へと意欲を燃やしていたが、長年の多忙がたたり、身体には限界がきていた。腹膜炎を患い、寄付興行直後の11月に昏睡状態へ陥る。貞奴らは、音二郎が関西での近代演劇隆盛を夢見て設立した帝国座で息を引き取らせたいと願い、舞台上に寝具を設けた。稀代の演劇人は、親族や門下生に見守られながら、この舞台で眠るように息を引き取る。享年48歳という若すぎる死ではあったが、芸に生き、芸に生涯をささげた男にふさわしい最期であった。 音二郎の本葬日には、彼の死を悼み、関西の劇場に出演していた全俳優が会葬に訪れた。そのため、当日は関西中の劇場が休場になったという。

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