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歴史人物伝 歴史人物伝

日本のビール醸造の開拓者たち

生田秀

生田秀

ビール業界に近代化の風を吹き込む
いくた ひいず、1857ー1906/新潟県出身
(写真:アサヒビール株式会社 蔵)
1891(明治24)年、大阪に画期的な醸造所が竣工された。最新鋭の冷凍機や酵母純粋培養器を備えた大阪麦酒の吹田村醸造所(現・アサヒビール吹田工場)である。当時、冷凍機や培養器の不備が日本の醸造者たちを悩ませていたが、吹田村醸造所ではビール醸造に不可欠な機械類のすべてを網羅していたのであった。この醸造所建設の指揮を執ったのが、支配人兼技術長の生田秀。ドイツで日本人初の「ブラウマイスター」となった人物である。翌年、新製品の「アサヒビール」が発売されると、好評を得て発売5、6カ月後には製造が追いつかないほどになった。

この成功は、生田の綿密な計画によってもたらされたといっても過言ではない。元々生田は、ドイツ留学前から技術長就任が決まっていた。プロモーターの外山脩三は、醸造所の設計から醸造技術まで、製造に関する全権を生田に委任したのである。そのため生田は、帰国後にビール醸造を行うことを予察しながら、技術の習得に励むことができた。

生田が注目したのは、風土による醸造法の違いだった。渡独してわずか2週間後に書かれた報告書では、早くも冷却装置の重要性について言及している。こうして約1年半、醸造技術の習得と最新の機械の調査を重ね、日本でのビール醸造には機械化が必要だと痛感するのである。この最新機械の導入により、日本のビール醸造技術は、急速に進歩していった。
吹田村醸造所前で撮影された記念写真

吹田村醸造所前で撮影された記念写真(アサヒビール株式会社 蔵)


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