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テーマ別解説

ビール広告の歴史

(5)輸送手段がビールの広告に
ビール会社は輸送手段も広告に利用した。ビール輸送と広告が合体した最初の例は、ビール馬車である。「キリンビール」の総代理店であった明治屋が、1909(明治42)年に導入した宣伝カーはその流れを汲むもので、通称を「ナンバーワン自動車」といった。

ナンバーワン自動車は、スコットランドから輸入した貨物自動車だった。通称は、警視庁登録番号の「1」を取得したことに由来する。まだ自動車が珍しかった時代である上に、この貨物自動車はただの貨物自動車ではなく、車体全体がビールびんの形を模してつくられていた。そのため人の多い繁華街でも目立ち、ナンバーワン自動車が配達に来ると人々が寄ってきた。

ナンバーワン自動車はその後、びんから幌に模様替えして、1912(明治45)年には東北への宣伝旅行を行った。東北では自動車のエンジン音やクラクション代わりに鳴らしていたサイレン音も珍しがられ、見物人が集まった。当時東北では、ビールを飲む人はほんの一部の人々であったがナンバーワン自動車はビールを飲まない人々にも「キリンビール」の名を広めた。

さらに明治屋は、1913(大正2)年の花見の時期に上野不忍池湖畔東京勧業博覧会で飛行船を使った「キリンビール」の広告を行った。飛行機が活躍しはじめた1920(大正9)年には飛行機から宣伝ビラをまいた。

他のビール会社も広告に工夫をこらしたため、大正時代、ビール会社の宣伝競争は激しさを増した。特にビール会社各社の初荷の行列は新年恒例の見ものとなった。1914(大正3)年1月1日付『読売新聞』はその大仰な準備を次のように描き出す。「明二日の初荷は例年の通り各商店とも意匠も凝らし就中(なかんづく)日本麦酒株式会社にては自動車八台を先に荷馬車及び荷車三十余台に数旈(すうりゅう)の旗と提灯を押立て花々しく市内の得意先を廻り又銀座二丁目のキリンビール明治屋にては同じく自動車五台を先頭にビール樽の花車を牛に曳かせ市中を廻らんと其筋へ願ひ出で(以下略)」。ビールの初荷は警察に届ける必要があるほどの行列だったのである。 大正から昭和にかけては乗り物を使った広告のほか、マッチ広告も流行した。カフェーのほか酒屋の販売店に設けられたスタンドなどでもマッチが配られ、マッチラベルのコレクターも多かった。

ビールの銘柄入り広告品はマッチのほかにも多数つくられた。コップ、手鏡、栓抜きなどがつくられ、さらに祭などで名前入りの手ぬぐい、団扇を配られることも始まった。

また大正期以降、ビール会社は自社系列のビアホールやカフェーには、什器や食器などを提供した。ビールの銘柄の入ったピッチャー、グラス、トレー、鏡、つり銭皿などが用いられ、壁にはポスターや短冊が貼られているので、店内のどこを向いてもビールのブランド名が目に入るという作戦であった。
ナンバーワン自動車

ナンバーワン自動車


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