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キリングループの歴史

  • 文明開花華やかなる明治の頃、ビールは「新時代の飲み物」でした。1888年の「キリンビール」の発売以来、時代がめまぐるしく変化する中でも常にお客さまの暮らしに寄り添い、あたらしい飲みものをお届けしてきました。このページでは、キリンビールを中心としたグループの歩みをご紹介します。
  • ジャパン・ブルワリー重役会議事録

戦後、「キリンビール」は国内トップブランドへ

進駐軍用のビール

進駐軍用のビール

終戦後の再建期に行われた副業製品のラベル

終戦後の再建期に行われた
副業製品のラベル

商標復活後のラベル

商標復活後のラベル

第二次大戦後にビールの仕込みは再開されましたが、原料や資材の不足から生産量は依然低い状態にありました。ましてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がビール生産量を制限したため、当社と大日本麦酒の間で原料比率と生産比率が決められました。その比率は戦時中の実績で決められたため、当社の比率は低く抑えられたのでした。当社は少しでも利益を得ようと遊休設備を利用して醤油製造や倉庫業などを行いました。

1947(昭和22)年には「過度経済力集中排除法」が制定され、大企業の分割を進めるべく325社が指定されました。当社も同法の指定を受けましたが、分割を回避するため努力していきました。結局、米国の対日政策方針が転換したことで当社を含むほとんどの会社が分割を免れました。しかし大日本麦酒は日本麦酒株式会社と朝日麦酒株式会社に分割されたのでした。

1949(昭和24)年、戦後も継続していた酒類の配給統制が解除されました。当社は、同年7月に支店・出張所を再開し、特約店契約を結んで全国的な販売網の強化に努めました。同じ年の12月には出荷先の制限がなくなり、各社の商標も使用できるようになりました。当社は商標「キリンビール」を復活させ、販売を開始しました。

ビール需要は1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争による特需景気で大幅な伸びを記録しました。当社は既存4工場に最新設備を導入し、1954(昭和29)年までの3年間で生産能力を倍増させました。この間当社は東京に新工場を建設することを決定しました。しかし当社の生産比率はまだ低く抑えられていたため、能力増強に見合う生産ができませんでした。やむなく工場周辺と大都市に重点的に出荷する方針をとり、大消費地での不利を補いました。そして比率が撤廃されて生産が自由になった1954(昭和29)年に、「キリンビール」は年間庫出量でトップシェアを獲得しました。
進駐軍用のビール

進駐軍用のビール

終戦後の再建期に行われた副業製品のラベル

終戦後の再建期に行われた
副業製品のラベル

商標復活後のラベル

商標復活後のラベル

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