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キリングループの歴史

  • 文明開花華やかなる明治の頃、ビールは「新時代の飲み物」でした。1888年の「キリンビール」の発売以来、時代がめまぐるしく変化する中でも常にお客さまの暮らしに寄り添い、あたらしい飲みものをお届けしてきました。このページでは、キリンビールを中心としたグループの歩みをご紹介します。
  • ジャパン・ブルワリー重役会議事録

激化するビール競争、生き残りかけ麒麟麦酒会社創立へ

1907年頃の横浜山手工場

1907年頃の横浜山手工場

麒麟麦酒株式会社定款(関東大震災で一部破損)

麒麟麦酒株式会社定款
(関東大震災で一部破損)

1900年代に入ると、ビール業界の様相は大きく変化していきました。まず1901(明治34)年に麦酒税法が施行されると、中小の醸造業者の多くはその負担に耐え切れず、次々と市場から姿を消していきました。さらに1903(明治36)年の札幌麦酒会社の関東市場進出に端を発し、大手各社は互いの主力市場に進出し合う激しい競争を繰り広げるようになりました。そうした中、競争を回避するため、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同による大日本麦酒株式会社が設立されました。市場シェア70%をこえる大会社の誕生でした。

このときジャパン・ブルワリーは大日本麦酒から合同の提案を受けました。そこで当時チェアマン兼専務取締役であったフランク・スコット・ジェームズは、明治屋社長の米井源治郎に相談しました。その結果、米井はジャパン・ブルワリーを操業状態のまま引き継いで新会社を設立することを決意しました。米井は、三菱合資社長の岩崎久彌に支援を懇請して、三菱から人材と資金援助を得るなど準備を進めていきました。そして1907(明治40)年2月23日、岩崎家、三菱合資・明治屋関係者らによって麒麟麦酒株式会社が創立されたのです。

新会社は、ジャパン・ブルワリー同様、ドイツ人醸造技師によるドイツ産原料を用いたビール醸造を行うことにしました。また、輸出を含めた一手販売契約を引き続き明治屋と締結しました。「キリンビール」は本格的なドイツ風ビールとして市場から高い評価を受けたのでした。
1907年頃の横浜山手工場

1907年頃の横浜山手工場

麒麟麦酒株式会社定款(関東大震災で一部破損)

麒麟麦酒株式会社定款
(関東大震災で一部破損)

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