[ページの先頭です。]

ページ内を移動するためのリンクです。

[ここから本文です。]

キリングループの歴史

  • 文明開花華やかなる明治の頃、ビールは「新時代の飲み物」でした。1888年の「キリンビール」の発売以来、時代がめまぐるしく変化する中でも常にお客さまの暮らしに寄り添い、あたらしい飲みものをお届けしてきました。このページでは、キリンビールを中心としたグループの歩みをご紹介します。
  • ジャパン・ブルワリー重役会議事録

前史:ジャパン・ブルワリー・カンパニー

1885年頃の横浜山手工場

1885年頃の横浜山手工場

1888年の「キリンビール」ラベル

1888年の「キリンビール」ラベル

1889年の「キリンビール」ラベル

1889年の「キリンビール」ラベル

ジャパン・ブルワリー・カンパニーは、1885(明治18)年7月、スプリングバレー・ブルワリーの跡地に資本金5万香港ドルで設立されました。その中心となったのは、タルボット(W. H. Talbot)やアボット(E. Abbott)といった、ビール事業が将来有望であると見込んだ横浜山手の在留外国人たちでした。さらにのちにジャパン・ブルワリーの重役になる貿易商人トーマス・ブレーク・グラバー(T. B. Glover)の尽力で、岩崎彌之助(三菱社社長)をはじめ日本人9人が株主として参加しました。

ジャパン・ブルワリーは、最新の醸造機械と蒸気設備を備えることと、醸造技師に熟練したドイツ人技師を招聘することを徹底して、本格的なドイツ風ビール醸造を志しました。第1回目の仕込みが行われたのは1888(明治21)年2月23日でした。また外国法人であるジャパン・ブルワリーは国内の販売には日本人経営の代理店が必要だったので、明治屋の創業者磯野計と国内一手販売契約を結びました。そして三菱の荘田平五郎の発案で東洋の霊獣“麒麟”をラベルに採用して、1888(明治21)年5月に「キリンビール」を発売しました。なおラベルのデザインは翌年6月にグラバーの提案で変更され、現在のデザインの原型となりました。

ビール業界では1880年代後半から中小規模の醸造所だけでなく、札幌麦酒会社(前身は官営開拓使麦酒醸造所)、丸三麦酒醸造所、日本麦酒醸造会社、大阪麦酒会社など資本力を有する会社も相次いで設立されました。さらに日清戦争後の好景気にビールの需要が高まると、各社は生産量を増やすとともに販売活動にも力を注いでいきました。ジャパン・ブルワリーの国内総代理店である明治屋も、斬新な広告手法を取り入れて「キリンビール」の拡販に努めたのでした。
1885年頃の横浜山手工場

1885年頃の横浜山手工場

1888年の「キリンビール」ラベル

1888年の「キリンビール」ラベル

1889年の「キリンビール」ラベル

1889年の「キリンビール」ラベル

[ここからフッタです。]

先頭へジャンプ